高野山 帰り道
いつも訪問をありがとうございます☆
だいぶ更新が遅れてしまいましたが、高野山最後の記事になります
帰りの日は、歩いて徳川家霊台に向かいました
徳川家霊台は江戸時代初期の霊廟建築として国の重要文化財に指定されています
寛永20(1643)年、3代将軍家光によって、初代家康と2代秀忠の霊廟を建てました。
正面から向って右側が安国院殿霊廟(家康)です

そんなに大きくはないのですが、格式の高さを感じます

家康の干支が寅年なので、中央に虎、その両脇には中国神話の麒麟が彫られています。

向って左側が大徳院殿霊廟(秀忠)です

撮影をした時は、あまり気にならなかったのですが、
家康の霊廟と同じ作りでも、彫刻などが違うみたいです ^^;

秀忠の干支が兎年なので、中央に兎、その両脇には虎が彫られています

徳川家霊台をでて、高野山真言宗別格本山 南院の浪切不動尊を参拝しました
ここは近畿三十六不動尊の第36番目になります
本尊浪切不動明王は、弘法大師の自作の本尊です

本堂拝殿の天井には、鳴竜が描かれていて、この竜の目の下で柏手をうつと、
天井と床が共鳴して鈴のなくような音が聞こえるといいますが、参拝時は気が付きませんでした…

しばらく歩いて、女人堂に着きました ここでバスに乗って高野山駅に戻ります
明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、高野山の登り口に設けられていた女性のための参籠所です
ここは女人堂と呼ばれる建物のうち唯一現存するものです

厳しく修行を行う場では、女性禁制にしないと心が揺らいでしまうからでしょうね!
間違いなく僕なら、心が揺らいでしまいます ^^;
振り返ると、入り口の大きな石門があり、世俗と一線を置いた場所という感じがしました

まだ、見ていない場所があるので、いつか高野山を訪れたいと思います!
この日は、この後に知人の家に遊びに行きました☆
料理が上手な人なので、美味しい料理がいっぱい並べてありました \(^ ^)/
もちろん! とっても美味しかったし、楽しく、色んな話が出来て有意義な日でした
ちょっと残念だったのが、家にいたわんこ達が可愛かったのですが、
どうも男が好きでないみたいで、近寄ってくれませんでした(笑)
だいぶ更新が遅れてしまいましたが、高野山最後の記事になります
帰りの日は、歩いて徳川家霊台に向かいました
徳川家霊台は江戸時代初期の霊廟建築として国の重要文化財に指定されています
寛永20(1643)年、3代将軍家光によって、初代家康と2代秀忠の霊廟を建てました。
正面から向って右側が安国院殿霊廟(家康)です

そんなに大きくはないのですが、格式の高さを感じます

家康の干支が寅年なので、中央に虎、その両脇には中国神話の麒麟が彫られています。

向って左側が大徳院殿霊廟(秀忠)です

撮影をした時は、あまり気にならなかったのですが、
家康の霊廟と同じ作りでも、彫刻などが違うみたいです ^^;

秀忠の干支が兎年なので、中央に兎、その両脇には虎が彫られています

徳川家霊台をでて、高野山真言宗別格本山 南院の浪切不動尊を参拝しました
ここは近畿三十六不動尊の第36番目になります
本尊浪切不動明王は、弘法大師の自作の本尊です

本堂拝殿の天井には、鳴竜が描かれていて、この竜の目の下で柏手をうつと、
天井と床が共鳴して鈴のなくような音が聞こえるといいますが、参拝時は気が付きませんでした…

しばらく歩いて、女人堂に着きました ここでバスに乗って高野山駅に戻ります
明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、高野山の登り口に設けられていた女性のための参籠所です
ここは女人堂と呼ばれる建物のうち唯一現存するものです

厳しく修行を行う場では、女性禁制にしないと心が揺らいでしまうからでしょうね!
間違いなく僕なら、心が揺らいでしまいます ^^;
振り返ると、入り口の大きな石門があり、世俗と一線を置いた場所という感じがしました

まだ、見ていない場所があるので、いつか高野山を訪れたいと思います!
この日は、この後に知人の家に遊びに行きました☆
料理が上手な人なので、美味しい料理がいっぱい並べてありました \(^ ^)/
もちろん! とっても美味しかったし、楽しく、色んな話が出来て有意義な日でした
ちょっと残念だったのが、家にいたわんこ達が可愛かったのですが、
どうも男が好きでないみたいで、近寄ってくれませんでした(笑)
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高野山 奥之院
いつも訪問をありがとうございます
高野山の記事の続きです
金剛峯寺を出て、高野山信仰の中心 奥之院に向かいました
奥之院前バス停で、降りたほうが近いのですが、
一の橋から参拝するのが正式なルートとされているので、こちらで下車しました
手水舎に向かうと、子供がじっくり何かを見つめている…
その先にはカタツムリ☆ なんかホンワカ気分になった (^^)

一の橋は正式には「大渡橋」や「大橋」と言われ、お大師様がここまで送り迎えされると伝わっています
ここで襟を正して、1礼をしてから橋を渡りましょう!

一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、
多くの諸大名の墓石の数々が杉木立の中に立ち並んでいます。

薄暗く、静かな墓地ですが、不思議とほんわかした雰囲気が漂っている気がします

諸大名の墓の前の鳥居は昔の神仏混合の名残で、
明治の神仏分離令の際にも高野山からは鳥居が取り払われなかったそうです

鳥居の上にある花壇みたいなもの?? これはいくら調べても、判らなかったです…

昼間でも薄暗くて、石灯篭に灯りが灯っています
奥に行けばいくほど、空気が変わっていくような感じです

霊験あらたかな子授け地蔵は参拝する人が多く、ロウソクが灯されています

ここには汗かき地蔵が祀られていて、汗かき地蔵は人々の苦しみを身代わりになって、
一身に受けているのでいつも汗をかいていると伝えられています

汗かき地蔵のお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、
この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているのだとか
さらに、昔の人はこの水で目を洗えばどんな眼病も治ったと言われています。
試しに井戸を覗いてみました… ちゃんと顏が写っている 良かった… ^^;

至る所にお地蔵様が置いてあり、どのお地蔵さまも柔らかな表情をしていました

御廟橋近くにあるお堂には厄除け大師と厄除け不動尊が祀られています

この玉川は奥之院の裏山、霊峰楊柳山より流れる川です
神聖な川とされ、禊の場所になっているそうです

玉川を背にして観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王が並んでいます
御共所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けてご先祖の冥福を祈ります

御廟橋を渡るとお大師様が入廷された大師御廟への霊域に入ります
神聖な場所なので、撮影、飲食、煙草は禁止で、なるべく静かにしなければいけません

御廟橋を渡り、階段を上がると灯篭堂があり、
中に入ると様々な人が祈りを込めた灯篭が奉納されていました
その先に大師信仰の中心聖地の大師御廟があります
お大師様(空海)は、835年に入定(にゅうじょう)したと言われています
現在でも奥之院の御廟の中で空海は修行を続けていると信じられている
そして1200年間も奥之院の維那(ゆいな)と呼ばれる僧が、
1日2回の食事をお大師様に給仕しているのです
木々に囲まれた大師御廟の前に行くと、
葉を銜えた小鳥が何匹も飛びまわっていて、何とも言えない光景
それは清らかな幸せに満ち、どんな苦しみもない極楽浄土を見た様な気分でした
ちょっと残念だったのが…
変な団体さんが他に参拝客がいるに関わらず、大師御廟の前で長々とお経を唱えていました
お大師様の前では、誰もが公平とされているので、自分たちのご利益ばかりを追求せずに、
他者への譲り合いの精神を持ってもらいたかったです
今回はお寺(宿坊)に泊まりました
夕食は食べる事も修行と言われる精進料理です
仏教の戒律に基づき殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理
お出しが効いていて、割と美味しい☆

食後は部屋に戻って、写経体験をしました☆
手に塗香で清めてから、精神統一に阿字観で使われる呼吸方法を行ないます
さてっと、般若心経を書いていきま~す

うぉ~1枚書くのに、かなり時間が掛かる
まだ終わらないと雑念ばかり (>_<)
何とか、書き終えて次の朝行で奉納をしました
まだまだ、僕は修行が足りないみたいですね~ ^^;
高野山の記事の続きです
金剛峯寺を出て、高野山信仰の中心 奥之院に向かいました
奥之院前バス停で、降りたほうが近いのですが、
一の橋から参拝するのが正式なルートとされているので、こちらで下車しました
手水舎に向かうと、子供がじっくり何かを見つめている…
その先にはカタツムリ☆ なんかホンワカ気分になった (^^)

一の橋は正式には「大渡橋」や「大橋」と言われ、お大師様がここまで送り迎えされると伝わっています
ここで襟を正して、1礼をしてから橋を渡りましょう!

一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、
多くの諸大名の墓石の数々が杉木立の中に立ち並んでいます。

薄暗く、静かな墓地ですが、不思議とほんわかした雰囲気が漂っている気がします

諸大名の墓の前の鳥居は昔の神仏混合の名残で、
明治の神仏分離令の際にも高野山からは鳥居が取り払われなかったそうです

鳥居の上にある花壇みたいなもの?? これはいくら調べても、判らなかったです…

昼間でも薄暗くて、石灯篭に灯りが灯っています
奥に行けばいくほど、空気が変わっていくような感じです

霊験あらたかな子授け地蔵は参拝する人が多く、ロウソクが灯されています

ここには汗かき地蔵が祀られていて、汗かき地蔵は人々の苦しみを身代わりになって、
一身に受けているのでいつも汗をかいていると伝えられています

汗かき地蔵のお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、
この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているのだとか
さらに、昔の人はこの水で目を洗えばどんな眼病も治ったと言われています。
試しに井戸を覗いてみました… ちゃんと顏が写っている 良かった… ^^;

至る所にお地蔵様が置いてあり、どのお地蔵さまも柔らかな表情をしていました

御廟橋近くにあるお堂には厄除け大師と厄除け不動尊が祀られています

この玉川は奥之院の裏山、霊峰楊柳山より流れる川です
神聖な川とされ、禊の場所になっているそうです

玉川を背にして観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王が並んでいます
御共所で水向塔婆を求めて、このお地蔵さんに納め、水を手向けてご先祖の冥福を祈ります

御廟橋を渡るとお大師様が入廷された大師御廟への霊域に入ります
神聖な場所なので、撮影、飲食、煙草は禁止で、なるべく静かにしなければいけません

御廟橋を渡り、階段を上がると灯篭堂があり、
中に入ると様々な人が祈りを込めた灯篭が奉納されていました
その先に大師信仰の中心聖地の大師御廟があります
お大師様(空海)は、835年に入定(にゅうじょう)したと言われています
現在でも奥之院の御廟の中で空海は修行を続けていると信じられている
そして1200年間も奥之院の維那(ゆいな)と呼ばれる僧が、
1日2回の食事をお大師様に給仕しているのです
木々に囲まれた大師御廟の前に行くと、
葉を銜えた小鳥が何匹も飛びまわっていて、何とも言えない光景
それは清らかな幸せに満ち、どんな苦しみもない極楽浄土を見た様な気分でした
ちょっと残念だったのが…
変な団体さんが他に参拝客がいるに関わらず、大師御廟の前で長々とお経を唱えていました
お大師様の前では、誰もが公平とされているので、自分たちのご利益ばかりを追求せずに、
他者への譲り合いの精神を持ってもらいたかったです
今回はお寺(宿坊)に泊まりました
夕食は食べる事も修行と言われる精進料理です
仏教の戒律に基づき殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理
お出しが効いていて、割と美味しい☆

食後は部屋に戻って、写経体験をしました☆
手に塗香で清めてから、精神統一に阿字観で使われる呼吸方法を行ないます
さてっと、般若心経を書いていきま~す

うぉ~1枚書くのに、かなり時間が掛かる
まだ終わらないと雑念ばかり (>_<)
何とか、書き終えて次の朝行で奉納をしました
まだまだ、僕は修行が足りないみたいですね~ ^^;
高野山 金剛峯寺
いつも訪問をありがとうございます
高野山の記事の続きになります
高野山真言宗の総本山で、全国真言宗の総本山でもある金剛峯寺に入ります

正門は金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されました

桧皮ぶき 桧の皮の屋根の上に桶があります
これは天水桶と言われ、 火事の時に備えて水を溜めていたそうです

大玄関の上には立派な龍が装飾されています

大玄関前には回向柱が建てられ、色鮮やかな縄は御本尊へとつながっています
この回向柱や縄に触れると、本尊に触るのと同じ御利益あるといわれます

中に入ると仏間や綺麗な描かれた襖の座敷が遭ったのですが、人が多いこと、多い事…
それに中の撮影は禁止だったので、ちょっとガッカリしました
外は撮影可能なので、蟠龍庭を撮影!
2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。

この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、
奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す石は、お大師さまご誕生の地である四国の花崗岩、雲海を表す白川砂は京都のものが使われています
初めての庭園撮影は納得がいく出来ではなかったけど、
石庭は風情あって、しばらく眺めていました☆

次に続きます…
高野山の記事の続きになります
高野山真言宗の総本山で、全国真言宗の総本山でもある金剛峯寺に入ります

正門は金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されました

桧皮ぶき 桧の皮の屋根の上に桶があります
これは天水桶と言われ、 火事の時に備えて水を溜めていたそうです

大玄関の上には立派な龍が装飾されています

大玄関前には回向柱が建てられ、色鮮やかな縄は御本尊へとつながっています
この回向柱や縄に触れると、本尊に触るのと同じ御利益あるといわれます

中に入ると仏間や綺麗な描かれた襖の座敷が遭ったのですが、人が多いこと、多い事…
それに中の撮影は禁止だったので、ちょっとガッカリしました
外は撮影可能なので、蟠龍庭を撮影!
2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。

この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、
奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す石は、お大師さまご誕生の地である四国の花崗岩、雲海を表す白川砂は京都のものが使われています
初めての庭園撮影は納得がいく出来ではなかったけど、
石庭は風情あって、しばらく眺めていました☆

次に続きます…
高野山 壇上伽藍2
いつも訪問をありがとうございます
8/11に旅から無事帰ってきました☆
トラブル続きでしたが、楽しく旅する事ができました (^^♪
それでは、高野山の記事の続きになります
西塔を出て、左に向かうと手前から孔雀明王を祀っている孔雀堂
准胝観音を祀っている准胝堂 その奥に朱色の根本大塔が見えます

准胝堂の右隣には、真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安した御影堂です

御影堂の対面には金堂があります
高野山御開創当時、お大師さまの手により最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました

あ~!
後で気が付いたけど、御影堂と金堂の間にお大師様伝説の三鈷の松が有るのに素通りしてしまった…
残念だけど、撮影も、目で見る事も出来ませんでした (T_T)
根本大塔は真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されました
入り口で塗香を手に塗って清めてから参拝になります
中は当然撮影禁止ですが、圧倒する雰囲気がありました

本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲み、
16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、
四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。

説明してもピンとこないでしょ!
ここ! ← クリックするとちょっと見れます☆
運慶作の八大童子像と、本尊不動明王坐像が祀られていたと言われる国宝「不動堂」
不動堂の前には熱心に拝んでいる参拝客がいて、印象的でした
ちなみに平成27年8月28日(金)~30日(日)に特別公開で中を見れるそうです

三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。
伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです

東塔は白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建されました
天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、昭和59年に再建されました

紅葉の季節になれば、綺麗な景色になるんだろうなぁ~
仏教の世界は難しくて、中々判らないけれど、また来たくなる場所でした

次に続きます
PS:
今日から仕事が(休日出勤)始っちゃた… 夏休みが終わっちゃった… (T_T)
8/11に旅から無事帰ってきました☆
トラブル続きでしたが、楽しく旅する事ができました (^^♪
それでは、高野山の記事の続きになります
西塔を出て、左に向かうと手前から孔雀明王を祀っている孔雀堂
准胝観音を祀っている准胝堂 その奥に朱色の根本大塔が見えます

准胝堂の右隣には、真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安した御影堂です

御影堂の対面には金堂があります
高野山御開創当時、お大師さまの手により最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました

あ~!
後で気が付いたけど、御影堂と金堂の間にお大師様伝説の三鈷の松が有るのに素通りしてしまった…
残念だけど、撮影も、目で見る事も出来ませんでした (T_T)
根本大塔は真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されました
入り口で塗香を手に塗って清めてから参拝になります
中は当然撮影禁止ですが、圧倒する雰囲気がありました

本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲み、
16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、
四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。

説明してもピンとこないでしょ!
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運慶作の八大童子像と、本尊不動明王坐像が祀られていたと言われる国宝「不動堂」
不動堂の前には熱心に拝んでいる参拝客がいて、印象的でした
ちなみに平成27年8月28日(金)~30日(日)に特別公開で中を見れるそうです

三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。
伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです

東塔は白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建されました
天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、昭和59年に再建されました

紅葉の季節になれば、綺麗な景色になるんだろうなぁ~
仏教の世界は難しくて、中々判らないけれど、また来たくなる場所でした

次に続きます
PS:
今日から仕事が(休日出勤)始っちゃた… 夏休みが終わっちゃった… (T_T)
高野山 壇上伽藍1
いつも訪問をありがとうございます☆
それでは壇上伽藍に入って行きます
伽藍とは梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、
僧侶が集まり修行する所という意味だそうです
中門を抜けると高野山一山の総本堂の金堂があります
中央の柱には5色の紐が掛けられていて、金堂の中の御本尊の薬師如来の指につながっているそうです

左に行くと六角経蔵があります 木々の緑の中で白い建物が目立ってますね~

1159年に鳥羽上皇の菩提を弔うために皇后美福門院得子が創建しました

更に奥には御社(みやしろ)の拝殿の山王院があります

1171年以前に創建されました。 この拝殿は1845年に再建されたものです。

御社(みやしろ)は高野山開創にあたり、819年にお大師様は結界守護の為、丹生・高野両大明神を歓請しました
鳥居の向こうは高野山の地主神である丹生・高野両大明神を祀る2社と十二王子・百二十伴神の総社があります
山の神様を祀る場所は凛とした空気が漂っています

参拝して御社を通り抜けると木々に囲まれた西塔が見えて来ました

887年、光孝天皇の勅命により、お大師様の遺された「御図記」に従って建立しました
この日は運よく特別公開だったので、御本尊の大日如来像を見る事ができました (^^♪

西塔から出ると、木々に囲まれた山王院の景色が美しく思えました~

次に続きます…
それでは壇上伽藍に入って行きます
伽藍とは梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、
僧侶が集まり修行する所という意味だそうです
中門を抜けると高野山一山の総本堂の金堂があります
中央の柱には5色の紐が掛けられていて、金堂の中の御本尊の薬師如来の指につながっているそうです

左に行くと六角経蔵があります 木々の緑の中で白い建物が目立ってますね~

1159年に鳥羽上皇の菩提を弔うために皇后美福門院得子が創建しました

更に奥には御社(みやしろ)の拝殿の山王院があります

1171年以前に創建されました。 この拝殿は1845年に再建されたものです。

御社(みやしろ)は高野山開創にあたり、819年にお大師様は結界守護の為、丹生・高野両大明神を歓請しました
鳥居の向こうは高野山の地主神である丹生・高野両大明神を祀る2社と十二王子・百二十伴神の総社があります
山の神様を祀る場所は凛とした空気が漂っています

参拝して御社を通り抜けると木々に囲まれた西塔が見えて来ました

887年、光孝天皇の勅命により、お大師様の遺された「御図記」に従って建立しました
この日は運よく特別公開だったので、御本尊の大日如来像を見る事ができました (^^♪

西塔から出ると、木々に囲まれた山王院の景色が美しく思えました~

次に続きます…